後期バロック、ロココ、この様式はパステル調の色や非対称なデザイン、曲線や黄金を多用する点が特徴的です。政治的な面により重点が置かれたバロックとは異なり、ロココで用いられる芸術的テーマはもっとおどけて、軽やかで、時には機知に富むこともありました。
宝石を着用することは上流階級はもちろん、中流階級や富裕層にとっても、アイデンティティの表現の一つでした。宮廷で、ボタンやバックル、ストマッカー、髪飾り、目貫、時計、コサージュ、ピアス、ネックレス等、黄金にはめ込まれた輝く宝石をつけている様子こそが、「宮廷ファッション」の原型であり、拡大し続ける中流階級は地位や財産を誇るため、盲目的にこれらを追い求めたのでした。
フランスの女性に宝石の大きなセットが好まれたのは、前世紀からの感覚でした。深い“décolleté” (ローネックもしくは肩紐のない衣服) の流行により、ネックレスは魅力的な胸元や首もとに注意を引きつける為、美への感覚を高める為に、装飾品の中でも重要な装身具だったのです。
ギャラリーにて販売
これに加えて、ネックレスは中央を幾つものフローラルモチーフで飾られることがよくあり、中央に付けられた蝶結びのリボン型のペンダントや十字、真珠の形をした宝石でさらに鮮やかにされていました。
ペンデロークとジランドールのデザイン(シャンデリア状のデザインでナシ型のダイアモンド等が付けられたもの) もまた当時流行の雰囲気にあったジュエリーでした。
伝統的な真珠の装身具類は、新たな宝石をセットすることでよりボリュームを増しました。エメラルドやサファイヤ、ルビーなど色のついた宝石もより頻繁に装身具類に用いられるようになり、ブラジルで産出するレモンイエローのクリソベリルやオレンジピンクのトパーズもまた晩に着用されるネックレスで流行しました。
また、良質な無色の鉛ガラスやホワイトトパーズ、水晶が模造ダイアモンドとして使われていました。箔打ちされ着色された鉛ガラスの付いた銀製の、美しく技巧を凝らして作られた装飾具のセットは貴族の間でさえも社会的に受け入れられるようになりました。
当時のフランスの宮廷ファッションの中で実に面白いのは、非常に高く整えられた女性の髪型です。デザインのバリエーションも多くあり、大きな船や、小鳥がさえずる森、花が咲き噴水のある庭、馬車や、当時の最新の話題など、物語がそのまま髪型になったようでした。ルイ16世の妃、当時のファッションリーダーのマリー・アントワネットは髪を高く結いすぎて、髪がシャンデリアにぶつかりシャンデリアを壊したという面白い話も残っています、彼女により、ベルベットや羽、リボンやポンポン用の模造宝石の大きな髪飾りが一般化しました。
ほとんど不気味とも思えるこのような贅沢は、不穏なフランス革命がすぐに訪れる影を落としています。ただ、個人的には、この時代の髪結師の仕事は、想像力を刺激してとても面白かっただろうと思います。
☆この素晴らしい18世紀の美術館級のピアスはサイトにて販売済みです☆
当時、このような高いかつらの為とのバランスをとるため、イアリングはたいてい長さ2インチ (5cm) で、ほとんど肩に届くほど大きな物でした。デザインは主に、シンプルな宝石がひとつついたデザインか、洗練されたシャンデリア型で、大きな宝石が中央にあり、小さな宝石で囲まれていました。
蝶結びは非常に人気のあるモチーフでした。蝶結びはピアスの宝石や、胸に注意を惹くため首につけるロケットの細密画を念頭に置いてデザインされました。動くと震える羽や花と一緒に二重蝶結びを髪飾りに使うことも好まれました。
ギャラリーにて販売
ストマッカーをブローチにした17世紀の作品 ギャラリーにて紹介しています。
ストマッカーとは、位置でいうと、この宝石部分に縫い留めて使うジュエリーです。
シャトレーンやストマッカーも人気となります、シャトレーンは宝石のついた金属製の飾りで、フック状の留め金と、鍵や装身具、鋏や個人的な小物類をぶら下げる鎖がついており、女性がウエストにつけるものであったが、実用目的というよりは館の女主人である事を示す為、美しさの為に着用されていました。これは多くの場合ウエディングプレゼントとして花婿から花嫁に贈られる装身具で、シャトレーンは家庭の経済事情に応じて、銀や真鍮、鋼鉄、革や織物で出来ていました。男性も装飾目的でシャトレーンを時計と共に着けていました。
販売済みのモーニングリング
ロココ様式がフランスで流行していた間、都市部に住むイギリス人は田舎暮らしの素朴さを求めていました。古典主義のエッセンスはドイツやイタリアで学んだ教養ある紳士淑女によりイギリスに持ち込まれます。物質的な価値よりも、感情的な価値や美徳を表現するセンチメンタルジュエリーが好まれました、愛の言葉が刻まれていたり、髪の毛が忍ばせたジュエリーが着用されたのです。
仙波亜希子
スカラベ付き回転式ベゼル指輪
ベゼルが回転し裏表の装飾が楽しめる独創性を持ち、かつ大変シンプルな形の指輪は宝飾品の全歴史を通じてもっとも長く続いたもので、
なんと4000年もの間流行っていました!その歴史を皆様に知っていただきたいと思います(^-^)
エジプト、アビドス、第12王朝の指輪
第12王朝の金製指輪(メトロポリタン美術館)
エジプト中王国第12王朝期(紀元前20~18世紀)、ファラオたちは金鉱山があるヌビアを征服し、スイベルリングを用いた最初の金の指輪が作られたのです。とりわけアビドスのこの時代の貴族の墓でスイベルリングの指輪が発見されました。
エジプトのスイベルリングにとって一番輝かしい時代は、新王国時代(紀元前1500~1000年頃)でした。その前の時代と同様、スイベルリングの指輪には必ずしもスカラベが付いていたわけではありません
スカラベ付きスイベルリングの流行はローマ帝国がエジプトを征服する(紀元前30年)まで、2000年間続きます。
プトレマイオス朝(紀元前300~30年)のエジプトのスイベルリング2種
新王国時代に、有力なファラオであったトトメス1世とトトメス3世(紀元前15世紀の前半)はカナンの地やレバント(近東)を征服しました。エジプトの様式がこの地域に入り込み、レバントの人々はスイベルリングを使い始め、スカラベはこの時代から流行し出しました。
紀元前12世紀の近東の文明。レバントでのエジプトの支配分布図
紀元前1200年以降、すなわちミケーネ文明末期以降、フェニキア人の都市の文明化が起こりました。フェニキア文明や芸術は当初、エジプト人とミケーネ人に多くの影響を与えます(紀元前1200年)。
その後、アッシリア人(紀元前1100年および870~620年)がレバントを征服し、スイベルリングやスカラベの形式は何世紀もの間姿を消しました。
バビロニアの王、ネブカドネザル2世(紀元前605~562年)の軍隊がフェニキア人の都市を攻撃した時、フェニキア人は抵抗を試み、エジプトと同盟を結びます。この時代に、エジプト様式の影響がフェニキア芸術に再び入りました。数多くのスカラベ付きスイベルリングがこの時代のものとされています。フェニキア人たちは金より銀を用い、意味を持たない偽の象形文字を使用し、グラニュレーションで指輪を飾っています。この方法はバビロニア人とアケメネス朝(ペルシャ王キュロス2世、紀元前539年にバビロンによって征服)の支配の間続きます。この形式は、アレキサンダー大王のレベント征服(紀元前333~332年)まで、紀元前5世紀も4世紀も継続しました。
フェニキアのコーネリアンスカラベ付き金製スイベルリング、紀元前6世紀
カルタゴは、紀元前814年にティルスの王が建設したフェニキアの都市です。この都市は、紀元前4世紀に地中海西部で強大な勢力となりました。カルタゴのフェニキア人もスカラベ付きスイベルリングを用いました。彼らの影響があるため、このような指輪をスペイン南部、サルデーニャ島、コルシカ島、シチリア島で見つけることができます。
スカラボイドが付いたフェニキア様式のスイベルリング、紀元前4世紀(スペインで発見)
ギリシャ文明は紀元前9世紀にフェニキア人と密接な関係を持ち始めました。ギリシャ人はギリシャ文字を創り出すために、フェニキア文字を使っています。キプロスは紀元前6世紀半ばに、ギリシャ人とフェニキア人が半々だった大きな島です。
紀元前650年に、ギリシャ人はエジプトのナイル川デルタにナウクラティスという都市を建設しました。サイス朝(エジプト第26王朝)(紀元前665~525年)時代に、ギリシャ人とエジプト人との関係は密になります。
この時代に、スカラベ付きスイベルリングがギリシャで流行し出します(レバントとエジプト双方の影響)。ギリシャ人は銀と同様に金も用い、スカラベを彫るためにカルセドニーとコーネリアンを使いました。紀元前6世紀以降、彼らは自然なディテールを持たないよりシンプルなスカラボイドの形も使っています。また、紀元前4世紀以降、平らな楕円形の石を使用するようになります。
フィリグリーで飾られたギリシャの銀製スイベルリング、紀元前500年頃 (ケルキラ島)
コーネリアンスカラベ付きギリシャの金製スイベルリング、紀元前4世紀
地中海全域にわたるギリシャ人の貿易の影響と植民地によって、ギリシャの都市はスカラベ付きスイベルリングの形式をイタリア南部へと広めていきました(特にターラントの都市では顕著)。
地中海地方におけるギリシャの植民地 (赤い点) とフェニキアの植民地 (黄色い点) 、紀元前 550 年頃
サラミスの海戦 (紀元前480 年)で、ギリシャ人はペルシャ帝国に勝ちます。ギリシャの都市はとても重要となり、それらの影響も大変重大になりました。ヘレニズム時代には、多くのスカラボイドと平らな楕円形の石が付いたスイベルリングがあります。
紀元前3世紀の地中海文明 :ギリシャ (黄色の地域)、フェニキア (緑の地域), ローマ(青の地域)
紀元前6世紀に、イタリア北部と中部では、エトルリア文明が重要になりました。この文明は紀元前300年頃まで重要性を保ちます。エトルリア人は、ギリシャとフェニキア文明の影響を受けています。彼らは、紀元前6世紀末期までには、スカラベ付きスイベルリングを使い始めていました。その影響はギリシャ人から来たのです。しかし、紀元前4世紀には、エトルリア人はカルタゴからも影響され、指輪を飾るのにグラニュレーションを用い始めました。
ギリシャ人 (赤い地域) とフェニキア人(青い地域)に近接している紀元前4世紀のエトルリア (緑の地域)
フェニキア様式のエトルリアの銀製スイベルリング、紀元前4世紀(大英博物館、 1859)
彼らはスカラベ付きスイベルリングのこの形式を紀元前3世紀まで続けます。
スカラベ付きギリシャ様式のエトルリアの金製スイベルリング、紀元前4~3世紀 (メトロポリタン美術館)
19世紀の回転式指輪に付けられたエトルリアスカラベ(紀元前4世紀)(メトロポリタン美術館)
時折、16世紀から18世紀の近代に、古代文明の愛好家がスカラベ付きスイベルリングをレバント、ギリシャ、エジプトといった所で見つけることがありました。ナポレオン・ボナパルト(1798-99)のエジプト征服以降、スイベルリングがヨーロッパで流行り始めましたが、そこではスカラベは使われず、インタリオやカメオ、細密画の使用が好まれました。
インタリオ付き金製スイベルリング、フランス、1800年頃
19世紀初頭の様式の金製スイベルリング
タルクイーニア近郊にあるエトルリア人のモンテロッツィ墳墓は18世紀に発見されましたが、最初の考古学上の発掘は19世紀に行われました。
カンパーナコレクションのエトルリアの金製指輪、紀元前3世紀 (ルーブル博物館)
著名な収集家であるジャン・ピエトロ・カンパーナ侯爵(1808~1880)は、1844年頃にカエレでの発掘を始めました。彼のエトルリア芸術作品のコレクションは有名になりました。「エトルリア様式」の流行は1850年以降に始まったのです。有名なローマの宝石商でカンパーナ侯爵の友人であるフォルトゥナト・ピオ・カステラーニ (1794 ~1865)は、エトルリア宝石のこの形式を広めました。エトルリアスカラベ付きスイベルリングを1850年~1860年に作り出したのです。カンパーナのエトルリア宝石コレクションは、1861年にナポレオン3世に買われました。このコレクションはルーブル博物館で展示されました。ウジェーヌ・フォントネーや後のルイ・ヴィーゼといったフランスの宝石商たちは、19世紀末までフランスでエトルリア様式を継続しています。
カステラーニによる金製スイベルリング、 1860頃
「エトルリア様式」で作られた金製スイベルリング、フランス、 1865頃
1922年のツタンカーメン王墓の発見は、スカラベ付きスイベルリングの形式を力強く復活させました。しかし、この時代の愛好家は、エトルリアスカラベよりヒエログラフ付きスカラベの方を好みました。
1922に発見されたツタンカーメンのトルコ石スカラベ付き金製スイベルリング 。
現在も引き続き、スカラベを付けたスイベルリングを製作している宝石職人もいます(特にエジプトもの)。
回転式ベゼルのついた現代的な指輪
仙波亜希子 Akiko semba
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